-合気について―
第7回
”試すことについて”
人は信ずるものを探し求めて生きる。
修行の「修」の字は、「イ」は人、「Ⅰ」は一対となり支えあうこと、「攵」は文で理論を、「彡」は三年かかることを意味するのかもしれない。
武術・武道等の入門時に誰もが体験することである。しかし、信じて入門し、修行を続けていく中で、いまだに試す人がいるのも事実である。毎回試す人、毎年試す人。そして、10年・20年・30年と、ついには自分の先生が……と。いつまで「試」は続くのか?それは一人一人の問題であろう。
私が初めて堀川先生に技・術を掛けて頂いた時、私は初段を拝受したばかりであった。その時の術は、いきなり殿中技、半坐半立(片手で肩、片手で手首を押える技)で、“動くな。その場で投げろ。”そのものであったことを思い出す。
堀川先生が技を掛けて見せる時、通常は奥義参段以上の人が受けを取ることになっていたが、新保先生と加藤先生との間から頭を覘かせ見ている私を、堀川先生は指差した。その時のことは、今ここにある様に思い出される。
その時から試すことを忘れ、今の私がある。
修行には試す修行と信ずる修行とがあると思う。信じているけど試しになっている修行も。
先生が技・術を弟子に伝える時、だいたい分かる様に教えるものである。“だいたい”で良いのだ。後は本人が修行して出来るようになれば良い。
昔は技を掛けたら教えたと同じことであった。今はそれでは誰も分からないので、より分かりやすく伝えている。したがって、当道場では、解説付きで、ゆっくりスローで感じ取れるように伝えている。先生が合気を入れるのが分かるという人もいる。分かる様に伝えなければ伝わらないし、正しく伝わらない。
“術”を昔の様に1回掛けるだけで、スパーッと掛けるだけで解説しない。これでは失伝してしまう。
今は伝え残したいがため、やさしく・丁寧に・ゆっくりと感覚にまで残るように伝えている。頭だけで技を覚えると、技が間違って伝わったことのチェックが出来ない身体になってしまう。これを防ぐため、頭と身体の感覚とを意識して伝えている。つまり一つの技が正確に伝授されるのである。
年をとっても、実際の“術”というものは早い。早すぎるくらいに早い。手品のように早い。ただ、手品とは違いタネはない。修行することによりだんだんと早くなり、技となり、術に近づくようになるのだ。
“術”は技の“コツ”だけでは修得出来ないが、“コツ”までならすぐに出来るようになるであろう。だが、料理の“コツ”とは違う。人は相手の“力”をコントロール出来るだろうか?ガスコンロの“火力”は手元のつまみで調整出来るし、料理はそもそも“抵抗しない食材達の火力の調整による化学反応”に過ぎない。これを“コツ”と言う。
技や術は、相手があってのことである。
合気は本当に難しい。
伝えることが非常に難しいので、ゆっくり分かりやすく技を掛け、解説付きで伝えている。弟子達から見れば、技が解るようになる。
当道場では、ここまで伝えている。一人一人が技を掛けられるようになるには、正しい修行が大切であることは言うまでもない。
試すとは、言っていることを「武」で試すこと。信ずるとは、人が言うことをそのまま、ありのまま受け入れることを言うのである。稽古の時に常に試す人は死ぬまで試すことになるのではないか?
人は心が大切である。伝授とは伝える側と授かる側とで成り立っている。どちらも心が大切となる。心が澄むか濁るかで、技の伝わり方も異なるし、得る技も変化する。
杉の木も枝ばかり多いと大木に育たないように、よけいな枝葉を切り落として立派な大木に成長するという「自然の理」を忘れるべきではない。
つづく